さあ言葉の海へ

言海 (ちくま学芸文庫)

言海 (ちくま学芸文庫)

歴史的仮名遣いの50音順、帯には「夏目漱石折口信夫新村出も…みんなが愛した明治の辞書」とある。

文字通り明治版の辞書が文庫の体裁で復刻されたのである。写真製版だろうか、活字は小さくつぶれた箇所もありかすれて薄くなっている所もあるが、これは底本となった昭和6年の小形版の大きさそのままであって今回の文庫化の際に縮小したものではないという。

広辞苑』の評判も芳しくない現在、『大言海』も私の手元にある辞書であるが、なんと言ってもかつての『言海』の評判の高さは伝説的ですらある。新聞広告で見て、即座に購入を決めて書店に走ったが、平積みにしてあったその分厚さに思わず笑ってしまった。

和語・漢語の違いなどにも配慮した見出し語の豊富さ、語釈の簡潔さ、使いこなすにはまず種々のルールをマスターすべきである。これが私などにはなかなか難しい部分もあるが、これから折りに触れて積極的に親しんで行きたいと考えている。

文学者の自負

退屈読本 上 (冨山房百科文庫 18)

退屈読本 上 (冨山房百科文庫 18)

退屈読本 下

退屈読本 下

最近折に触れて取り出してはあちこち読んでいるのがこの一冊である。

あの「秋刀魚の歌」の佐藤春夫がさまざまな話題について文体も配列も勝手気ままに書いたという印象の一冊である。

随筆として古くから評判の高いものであるが、最近また文章を書き始めたのを機に改めて手にしたところ、どこを読んでも面白いのである。

老父との風流なやりとり、美術批評、文学時評、ちょっとした出来事などなど、自由闊達な文章で展開される。

そこに文学者としての強い自負と、自分の感性や価値観に対する自信が隠しようもなく溢れている。

彼が懸念した文学の衰退は残念ながら現在さらに進んでしまったようだ。

余情豊かに リンボウ先生⑥

幻の旅 (文春文庫)

幻の旅 (文春文庫)

追憶のあまやかな香りを含んだ文章からなる、「大人のための絵本」と言われたのがこの「幻の旅」である。

そこに描かれている「旅」とは、懐かしい日々への時間旅行である。

牛乳瓶にメリケン粉を入れて海老を捕り、ヒグラシを心に刻んだ少年の夏の日へ、静かに、とまどいながら女性と愛を語りあった若い日へ、そして研究の疲れを慰めた豊かな自然あふれるロンドンの町へ思いは自由に飛び回る。

その細やかな自然描写のテクニックと、余情をたっぷりと心に残す文章にすっかり魅入られてしまったのである。

以来、リンボウ先生こと林望は私にとって文章表現の手本のひとりとなったのである。

私の履歴 同人誌『MY詩集』

もう二十数年前、若い者に典型的な文学少女であった私はこの同人誌の同人であった。メインサイトのハンドルネームも当時のペンネーム「布施愛霞」を残したものだ。

就職後3年ほどで、仕事人間となった私は同人を辞めた。それから約20年、先日横浜の書店でこの同人誌がまだ健在であることを知った。

隔月刊ではあるが、存続していた事自体奇跡に思えたのだが、ページを開くと懐かしい名前がいくつかあるのに驚いた。

同人番号順に並ぶページで、いつも隣や上にいた人の名前もその中にあり、「ダンクショット(20年後の挑戦)」などと書いている。

初恋の人に20年ぶりに会ったような面はゆさを感じながら買わずにはいられなかった。

当時の私は甘ったるい恋愛詩を書いていただろうと考えながら、当時の詩集を引っ張り出して併せて読む。案外恋愛詩ばかりではないのに気づく。ということは、どうも今でもあまり進歩していないらしい。

我思う故に…

プチ哲学 (中公文庫)

プチ哲学 (中公文庫)

しばらく日記の更新を休んでしまった。年度末で仕事が忙しかった(今も年度始めで忙しい)のは事実だが、読書をしていないわけではない。

いやむしろ雑多なものをバラバラと読んでいた。ただ、あまり良いと思うものに巡り会っていない。じっくり本に取り組む余裕を失っていたかも知れない。

単行本のときには買わなかった『プチ哲学』が文庫になり、文庫のために書き下ろされた部分が面白いように思えたので買ってしまった。

簡単に読み流してしまうと何も残らない。これをきっかけに少し深く考え始めると、哲学的な問題が姿を現すしくみである。そこに現れるのは問題の提起である。哲学するのはそれからまだ先のことであろう。

ああもう少し深くものを考えなくてはと思い出させてもらったのは収穫である。

そんなことなどあって、今は佐藤春夫の『退屈読本』に手をつけ始めた。ものを書く人間にとっては非常に面白いのではなかろうか。まあ定番の一冊である。じっくりとりくもうと思う。

血塗られた王朝文学

十二夜 闇と罪の王朝文学史

十二夜 闇と罪の王朝文学史

一人の執筆者の作品を追いかけて読むことはよくあることだろう。少なくとも私の場合はときおりそういうことがある。

現代詩人としての筆者を知らないわけではなかったが、これほど博識な人とはうかつなことに知らなかった。また、この本の場合は装幀から受けた印象が内容とかけ離れたイメージだったので、当初は全く手に取らなかった。

ところが、中公新書の『百人一首−恋する宮廷』を読んでイメージ一新、改めて本書を手に取ってその斬新かつ情念溢れる王朝文学解釈にすっかり魅了されてしまった。

限られた狭い社会の中で、極めて近しい間柄に生まれる愛憎、そこで殺し合い、愛し合う日本人の濃い血。その歴史を現在の視点で見ると、文学史は激しく禍々しい極めて人間くさいものになる。

お正月は百人一首で

百人一首―恋する宮廷 (中公新書)

百人一首―恋する宮廷 (中公新書)

お正月らしく、やはり百人一首で2004年の日記を始めることにする。

現在ではこれを編んだ人物を藤原定家であるとすることはほぼ揺るがないものの、なぜこの百首なのかという問いは未だに続いている。

この一冊は、百首を現代人の視点で読み解くものであり、著者の広い見識を通した解釈は極めて独創的である。「ちはやふる」を「血はや降る」と読み、薬子の血の臭いを嗅ぎ、平城上皇の怨みを含むという解釈などは、流れに浮かぶ紅葉の美しさとはあまりに対照的で、鳥肌が立つ想いを感じる。

海外の詩の文化をも踏まえての時空を超えた「後読み」は解釈の可能性を豊かに広げ、彼我の文化比較の視点からの平安王朝文化の位置づけは面白い。

平安貴族社会の、恋愛文化の爛熟と恋愛詩の洗練、勢力争いと官途出世の不遇感など、千年の昔の歌人達を、生身の人間として身近に感じられる一冊となっている。